論文原稿ver.1
執筆中だった論文を指導教員の先生に提出した。
ここまで長かったが、ここからも長い。
前回論文を書いた時は、最終的にver.12になるまで添削を繰り返してやっと受理された。それくらいの戦いを覚悟しないといけない。
筆者は文章を書くのが好きである。
研究はひたすら文章を書き続ける仕事であり、文章を書くのが好きでないとやっていけないと思う。ついでに、こんなブログも続けられないと思う。
文章というのは、書いている間はとても楽しく、自分で理解した気になっていて、完成したそれは誰が読んでも分かりやすいと錯覚しがちである。
しかし、現実でそんなことはまずなく、本当に読みやすい文章を書くには相当な訓練が必要になる。ちなみに筆者はそんな訓練は積んだことがないので、このブログの文章なども大変読みづらいはずである。申し訳ない。
そんな中、教授クラスの人間はこれまでに何本も論文を書き、いくつもの申請書を書き、そして様々な文章を読んできた歴戦の猛者である。
そういう先生が筆者みたいな人間の書くガバガバな文章を添削すると、当然真っ赤になって返ってくる。
文章を書くのが好きな人間にとって、自分の書いた文章がボコボコにされるのは、正直結構辛いものがある。
しかし、その添削に愚直に対応していくと、文章は目に見えて綺麗になっていく。この過程は辛いながらも快感がある。
また、文体というのは人によって好みがある。例えば、先生に直された箇所を別の先生に見せた時、その箇所がまた添削されていたりする。
ひどいときは、先生が修正した箇所が、次の添削の時に同じ先生によって再度修正されていたりしたこともある。
こういうのを見ていると、文章にセオリーはあっても正解はないんだと言うことがよくわかる。
そういうことを考えるようになってからは、自分の文章が真っ赤になって返ってくることには抵抗は小さくなった。辛くないとは言わないが。
とても昔の話だが、とある博士学生の愚痴で、「文章を書いてもほとんど修正されて、完成する文章は原型を留めていない。自分の書いた文章はどこへ行ったんだ?」みたいなのを読んだことがある。読んだのはたしか大学に入る直前とかだったと思う。
今となってはこの気持ちは大いに分かる。しかし、たぶんこの不満をこじらせてしまうとこの先やっていけないんだろうなと思う。大切なのはプライドではなく完成した論文なのだ。
さて、今回の論文はどれくらい直されて返ってくるのだろうか。